「憲法と私」

「憲法と私」

みやぎ憲法九条の会編 憲法にかける私の思い

目次

( 2007年1月30日 更新・2007年3月21日更新)
  1. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥後藤東陽
  2. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥戸枝 慶
  3. 明日への希望‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥山形孝夫
  4. 私にとっての憲法‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥安孫子麟
  5. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥阿部長壽
  6. 「少年の日の思い」を貫く‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥伊藤博義
  7. 同級生になった朝鮮の子どもたち‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥一戸葉子
  8. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥犬飼健郎
  9. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥大平 聡
  10. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥小田中聰樹
  11. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥河相一成
  12. 日本国憲法第九条を守ろう‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥菊地徳子
  13. 憲法九条は絶対変えさせてはならない‥‥‥‥‥‥‥‥木村緋紗子
  14. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥清藤恭雄
  15. この地球は一匹のアルマジロ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥佐藤和丸
  16. 私にとっての“不断の努力”とは何かを探して‥‥‥‥‥須藤道子
  17. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥勅使河原安夫
  18. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥西澤晴代
  19. 日本国憲法は『人類の宝』です‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥芳賀唯史
  20. 憲法と私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥樋口晟子
  21. カウラの桜………………………………………川井貞一
  22. 夥しい犠牲の上に生まれた新憲法….小出 精
  23. 父への想い……………………………………..木村春雄

「憲法と私」

後藤東陽

私は、宮城県民と共に、憲法九条を守る様々な活動をして参りましたが、それとは別に、独自のたたかいとして、二〇〇四年十二月八日、『自衛隊イラク派遣差止等請求』の訴訟を起こしました。

小泉首相の政府に依る憲法違反行為を、黙って見過ごすのは、国民として怠慢だと思ったからであります。

二年程の間に、都合八回の公判が開かれました。

私達三人の原告(宮城学院女子大学元学長・山形孝夫先生とYWCA元代表・戸枝慶さん)の陳述に、裁判長は正義感の強い人と見え、辛抱強く耳を傾けてくれました。いよいよ、この一一月二十八日に判決が出ます。

この間、被告『国』は、まともに答えることなく、なんだかんだとコムヅカシイ法律論をひねくり廻して逃げ回るばかりで、全く議論にすらなりませんでした。

新総理の安倍晋三氏は、就任前の八月二十五日、自衛隊の海外派遣について、武器使用緩和とか、恒久法制定の必要にまで言及致しました。

とんでもない話であります。

戦争のもたらす惨禍を知らず、いや、わざと見ない振りをする人達が、政権の座に付き、戦争に利得を求める少数者に奉仕する為、一億国民がまたもや地獄の淵に引きずり込まれそうです。

明治以来、戦争に明け暮れていた軍国日本が、平和ニッポンになって六〇年です。

アジアの近隣諸国を無視して、遠い米国と心中してはいけません。

大日本帝国最後の兵士であった私には、子や孫達に戦争のない安全な国を残す責任があります。

今度の判決如何に関りなく、憲法を守る為、今後も死ぬまでたたかいを続ける決意であります。

(みやぎ憲法九条の会代表・写真家・東陽写場代表取締役会長)


「憲法と私」

戸枝 慶

私のような戦争体験世代にとって、平和憲法を改定することなど、とんでもないことです。憲法が保証している「平和のうちに生存する権利」の人権侵害に当たると思います。

私は怒っています。マンガ風だと「国民をナメンナヨ」「フザケンジャナイヨ」「モットマジメにやれ」と政治を担当している人たちをドヤシタイです。日本のオーカタの人は、みんな一所懸命、真面目に働き、平穏に豊かに普通に暮らしたいのです。政府の都合などによって戦争に巻き込まれたくありません。

私たち大人は可愛い可愛いな小さな子供達、そして次世代を担う若者達の未来や希望に責任があるのです。

これからの戦争は「人類の滅亡」にもなりかねない。そんな危機をはらんでいることは誰でも知っている筈です。それ故に世界で唯一、原爆を投下された被爆国日本こそが世界に向かって「軍備によって平和はつくれない、九条こそ世界の宝」と発信する資格を持つ国です。戦争と殺戮の「おろか」な二十世紀から、人間の「英知」による平和への理想、それが憲法九条が創り出す二一世紀の「世界平和」の理想だと私は信じます。

(みやぎ憲法九条の会代表・仙台YWCA理事長)


「明日への希望」

山形孝夫

作家の大江健三郎さんは、ファンタジー小説『二百年の子供』の中で、「人間にとって一番大切なことは、言葉に出してはっきり表現することです」と書いている。私が自衛隊イラク派遣違憲訴訟に、原告のひとりとして加わったのは、今が私の人生にとって、言葉に出してはっきり表現する大切なときであると考えたからでした。

今の日本の政治には、言葉によるゴマカシが横行している。その最たるものが、自衛隊のイラク派遣。憲法九条は、だれの目にも間違いない表現で、それを禁止しています。どのように言いつくろっても違反は違反なのです。小泉政府は、こうした明白な違反を巧みにすり抜けるために、二つの期限付きの特別措置法を作ったのでしたが、それはやはりゴマカシでありました。そのゴマカシを正当化し、恒久化する戦略が、憲法改正の動きであります。政府はその準備を着々進めている。私たちにとって大切なことは、そのゴマカシを看破して、言葉に出してはっきり「ノー」と表現すること。そのことが、明日への希望である、と確信します。

(みやぎ憲法九条の会代表・元宮城学院女子大学学長 自衛隊イラク派遣違憲訴訟原告) 


「私にとっての憲法」

安孫子麟

敗戦の日からほぼ一年後、日本内地に引き上げてきたころ、憲法草案が貴族院で審議されていた。詳細は分からなかったが、二度と戦争をしないということを決めていると知って、新鮮な驚きを感じたことが記憶に残っている。

戦争は、軍人・兵士だけでなく、戦いに全く関わりのない非戦闘員をも殺し、戦禍にまきこむことを、外地にいた私たちは死ぬ思いで体験してきた。戦争をしている国の国民が殺されるだけでなく、戦争をしていない国の人も巻き添えをくって殺される。そんな戦争を、決してしない国、誇らしいと思った。
憲法は、私が平和的に、平穏に生きてゆく権利を保証してくれている、生き抜くためには、絶対に手放すことができないものだ。そして、平和のなかで生存していく権利は、日本国憲法が有している日本国民だけの権利ではないだろう。全ての人に保証されなければならない権利だと思う。とすれば、「日本国憲法」に止まることなく、「人類の憲法」という人間法に高めることが理想である。ただこの「人の法」が「神の法」と、どう折り合いをつけるか、それが人間の叡智ということだろう。

(みやぎ憲法九条の会世話人・東北大学元教授)


「憲法と私」

阿部長壽

「憲法九条を守る会」を設立することになったから、世話人の一人としてJA界から出てくれないかという誘いを河相先生と池上武さんからあった。どうも最近気になる政治課題として、憲法改正の議論、その手続法として国民投票法の制定、さらには教育基本法の改正議論が急に高まっていることに懸念を抱いてきた矢先でもあるのでOKの返事をした。

まず世話人会に出席して、憲法問題を深く考えたことがなかったので各界各層を網羅する先生方の熱心な討論に圧倒された。

また、仙台青年文化センターで開催された「みやぎ憲法九条の会」結成記念のつどいに会場からはみ出す参加者に圧倒されると同時に熱心な議論に感動した。

日本国憲法9条の問題は「世界の人間連帯と平和」につながる問題であり、世界に誇れ得る「憲法」であることを日本国民は確認すべきである。そういう意味からも「みやぎ憲法九条の会結成記念の集い」の大盛会は意義のある集会であったと思う。

協同組合運動の精神は「一人は万人のために 万人は一人のために」であり、人間連帯の協同活動を通じて「平和と繁栄」を実現することである。「戦争」は、相容れないというのが協同組合運動の理念でもあると思う。

戦争は理屈なしに否である。戦争の条件整備をしてはならない。平和憲法で世界に冠たる「日本国憲法」は絶対改悪してはならない。

(みやぎ憲法九条の会世話人・JAみやぎ登米代表理事組合長)


「少年の日の思い」を貫く

伊藤博義

「憲法九条の改悪によって、再び戦争をする国にならないために、私は、これからの人生において、自分の為し得るかぎりの力を尽くしていく覚悟です」。

これは、今年の年賀状に書いた一文です。

私は一九三四(昭和九)年生まれで、「九条の会アピール」を出した9人のうち、井上ひさしさん、大江健三郎さんとは同世代です。私たちは戦時中、国民学校で「皇国に奉仕する心を持つ少国民」として育てられ、戦後は、新制中学の一期生として、文部省著作兼発行の『あたらしい憲法のはなし』で、民主主義・平和主義・人権尊重を学んだ者同士です。

大江さんは、当時を振り返って「民主主義の気風を正面から受けとめて少年が解放され、未来への志をたてた。そして、それを実現する方向へ生きた(中略)。僕らは少年時の自分らを裏切らず、残りの生になしうるかぎりの仕事をして終えることになるだろう」と述べています(大江健三郎・小澤征爾『同じ年に生まれて』中公文庫)。私もまったく同感です。

したがって、憲法九条が改悪されて再び戦争をする国になることは、これまで生きてきた自分の人生が根こそぎ覆される思いです。そうさせないために、全力を尽くします。

(みやぎ憲法九条の会世話人・宮城教育大学名誉教授・元学長)


「同級生になった朝鮮の子どもたち」

一戸葉子

一九四三年秋田県花岡鉱山で国民学校初等科三年生だった私のクラスに、朝鮮人の子どもたちが三人位転校生として入ってきた。四クラスあったから、均等に分けたとすればその学年だけで十人を越していたのかも知れない。身体も大きく、字も絵も上手、勉強もよく出来る子どもたちで、私たちは事前に先生から、「朝(ちょう)鮮(せん)人(じん)とバカにしてはいけない」と云われていたこともあって、珍しいという気持ちはあったがほとんどわだかまりなく、むしろ尊敬の気持ちで付き合った。

当時その人たちが何故この町に来たのか、私は全然知らなかったし関心もなかった。ただ何故かその頃から急に鉱山で働く朝鮮人が増えたことだけは知っていた。あとで思えば彼女たちは危険な作業をさせるために母国から連れて来られた両親と共に、この町に来たのだった。

彼女たちが体格が良く何でも良く出来たのも、私たちより年上で、朝鮮では学齢になっても学校に行けなかった人たちがいるとか、あるいは日本でバカにされないように少し下の学年に編入させたのだとかいうことも、後に知ったことだった。

二年後、この町では朝鮮人労働者の生き埋め事件があり、その後中国人労働者の全員脱走した花岡事件が起り、その一ヶ月後に戦争は終った。その後、この人たちはどんな人生を送ったのだろう。在日朝鮮人にこと、帰国した人たちのことー日本の侵略で祖国を奪われた人々のことを考えると、私はいたたまれない思いにかられる。

だから憲法九条は、私たちの手で生き続けさせなければならないのです。

(みやぎ憲法九条の会世話人・婦人民主クラブ(再建)会長)


「憲法と私」

犬飼 健郎

平成一六年二月二五日、日弁連主催の「自衛隊のイラクへの派遣に反対する緊急報告集会」に参加し、映画監督の鎌中ひとみさんや弁護士の小野万理子さんから、米軍の使う劣化ウラン弾の飛沫が体内入ることにより、多くの人達特に子どもたちが白血病や癌に冒され、そして、死亡していく様子を、現場でとった映像を使いながらお聞きしました。

映像には、病院のベッドに横たわる、弱々しく見るからにあと二、三日の命かと思われるようなやせ衰えた子どもたち、そしてその子らの無気力で、悲しさを湛えた涙目が大きく写され、それは見るに耐えないものでした。大人になれないまま死んでいくのです。

これは不正義である、どんな理由をあげ、千万言を費やしても正当化できない残虐行為であると強く憤りました。そして、そのような劣化ウラン弾を使う軍隊を他国に送り武力を行使し、そして、長期間駐留するという極めて異常な事態は看過されるべきではなく、日本は、イラクから速やかに自衛隊を引き上げ、このような愚行を中止すべきです。

このような主張の拠り所となるのは、憲法九条であり、また、日本は確かに、イラクに自衛隊を派遣しましたが、武力行使に手かせ足かせをはめているのも憲法九条です。

このように考えた時、憲法九条の改正には強く反対するのが私達の義務と考えています。

ある詩の一部を引用します。

たとえ、どんな大義があろうとも
私はあなたが殺されるのを
見たくはない。
それにもまして、
たとえ、どんな大義があろうとも
私はあなたが殺すのを
見たくない。(堤江実)

憲法九条のある日本に生まれてよかった。この思いを世界に広めましょう。


「憲法と私」

大平聰

私は古代天皇制がどのようにして生み出されてきたかを研究しています。もし私が戦前に研究者の道を歩んでいたら、私は自由な研究をすることは不可能だったでしょう。先日、授業の途中で学生に、もし今の授業を戦前に行ったら、確実に私は特高警察に捕まり、拷問を受け、転向しない限り、牢獄につながれるか、場合によっては死に至らしめられるだろうと話して、ぞっとしてきました。憲法のありがたさを身にしみて感じます。

しかし、現在、本当に自由が保証されていると言えるでしょうか。県南のある町の資料館で、学徒勤労動員に関する講演を行いました。戦時中の体験を話して下さった方の(現在70代後半)、地理の授業で日本が占領した地域に日の丸を立てていくことがとても嫌だったという話を思い出し、娘の卒業式を控えていたこともあり、卒業式では「国旗」に対して起立しないし、「国歌」斉唱にも参加しないつもりですと話したところ、「国を愛せない者に公共施設で講演させていいのか」という抗議を受けました。

60年前の戦争に対しては、「私たちは洗脳されていた」と言うことができるでしょう。しかし、現在は違います。普通選挙が行われ、曲がりなりにも民主政治が行われています。国会の議決は、国民が選挙で選んだ代表が行うものです。教育基本法を国家統制型に改悪するのも、防衛庁を防衛省に格上げさせ、さらに自衛隊の本来任務に国外での軍事活動を加えるのも、国民が選んだ代表が決めることであり、結局国民自らその道を進むことを決めたことにほかなりません。

私は、今、戦前以上の危険な状態に日本が進みつつあることを痛感しております。最後の歯止めは、最早憲法9条以外にないのです。9条には憲法の大事なすべてが凝縮されています。「美しい国」「品格ある国」は、格調高い憲法前文にこそ表されています。人類普遍の崇高な目的が60年で変更されなければならないなど、どうして言えるのでしょうか。現行日本国憲法は、人類の偉大な財産として守り続けなければならないと思っています。

(「みやぎ憲法九条の会」世話人宮城学院女子大学教授 大平 聡)


「憲法と私」

小田中聰樹

私は、中学一年のときに『あたらしい憲法のはなし』を読んだ。

小学校に入学した年は一九四二年で、太平洋戦争がもう始まっており、父の出征やら疎開やらを経験し、また軍国主義教育もたっぷり教え込まれた。そして、敗戦後は教科書に墨をぬり、これからは文化国家、平和国家を理想としていこうとする社会の空気を存分に吸い込んだ。

そんな私にとって憲法はとてもわかりやすく身近なものに感じられ、一二、三歳の少年の頭脳にしっかり入ってきたのだった。

だから、その後間もなく朝鮮戦争が始まって再軍備や九条改正問題が現実化したとき、これに反対するのが戦後世代の自分たちの使命のように思われた。

また六〇年安保闘争にも躊(ためら)うことなく没入した。その後、法律学者になってからも、平和、人権、民主、そして福祉を追求するたたかいを、憲法に依拠して発展させるいとなみを続けてきた。そして、そのいとなみの中で、私たちの憲法がどんなに素晴らしい「人間の憲法」であるかを強く感じた。

この憲法には、沢山の民衆の涙や願いがこめられている。過去の人々や現在の人々だけでなく、これから生まれてくる人々の、人生と世界への希望と期待が込められているのである。

この希望としての憲法を何としても守りぬきたいと思う。

(みやぎ憲法九条の会世話人・東北大学名誉教授)


「憲法と私」

河相一成

旧制中学から新制高校に進学したときに、社会科の授業で先生が“出来立ての新憲法”を一条一条ていねいに説明してくれました。テキストは美濃部達吉の『新憲法概論』(1947年発刊)だったと思います。

ゴリゴリの軍国少年だった私にとっては、“目からウロコ”でした。世の中を見る目が変わりました。それまで頭に叩き込まれたことの“縛り”から開放されて、明るい灯が周りを照らしている新鮮味を痛いほど感じました。

これがキッカケで私の人生観・世界観はコペルニクス的転換を遂げたのでしょう。そのころから今日まで半世紀以上、「憲法」が示す道を歩いてきたつもりです。こういう意味で、私たちの世代は「憲法世代」と言っていいでしょう。

その憲法が、いま、その要・土台が変えられようとしています。そうなれば私のこれまでの人生が全否定されることになりますし、日本のこれからは再び暗黒になるでしょう。

今は、かつてと違って、「九条の会」が全国で、宮城で、生き生きと動いています。私たちはこの動きに希望を託して、憲法を、とりわけ第九条守り通したいものです。

(みやぎ憲法九条の会世話人・事務局長・東北大学名誉教授)


「日本国憲法第九条を守ろう」

菊地徳子

 私たちは如何なる事があっても憲法第九条は守らなければならない。わが国の平和はもちろん当然の事として、しかし今、地球の何処かで戦争が絶える事が無い。かつて我が国でもあの恐ろしい第二次世界大戦を経験し多くの人命を失い建物や自然を破壊し近隣のアジア諸国にも多大な危害を与えてしまった。

私は直接空襲に過った訳ではないし戦争は分かりませんでした。獣医という父の仕事で朝鮮に派遣されていた為、私は北朝鮮で生まれ七歳まで育ち終戦を迎え引揚げて来なければならなかった。引揚げてくる途中の広島の衝撃的な光景、そして東京、仙台駅に降り、私の見た光景は余りにも酷い焼け野原で、現在の西公園まで見渡せるほどの無惨な状態でした。生まれて初めて帰国した父母の郷里、建物は無く悄然とした人々の姿はあまりにも哀れで、子どもながらに唖然と致しました。

あれから日本は経済大国へそして国民等しく中流で何不自由なく生活が出来ました。そして六十年を経た今、日本国は何処へ進もうとしているのでしょうか。憲法九条を変えることにより、戦争放棄は?戦力の不保持は?いったいどうなるのでしょう。絶対に改憲は許してはいけないことです。世界平和のためにも。私たち日本国民の平和のためにも。一人一人が真剣に考え九条を守る会に参加してほしいと思います。

(みやぎ憲法九条の会呼びかけ人・筝曲・三弦教授)


「憲法九条は絶対変えさせてはならない」

木村緋紗子

政界の中で急速に高まる憲法を変えようとする動き、新憲法草案が発表され、本年の通常国会で憲法改正のため国民投票案が提出されようとしています。

改定のまとは「戦争の放棄」を謳った憲法九条。今まさにその新憲法草案では「戦争の放棄」という大切な言葉が消し去られようとしている。

戦後六〇年間、日本は平和主義国を堅持してこられたのは、あの「ヒロシマ・ナガサキをくり返さない」との誓いが原点となって生まれた憲法九条は平和の礎。これを改憲すると言う事は、戦争犠牲者や国民の願いを否定するものである。

戦後憲法九条は権力の独走を抑えるために存在したもので、平和理念をくつがえしかねない改憲に同調出来るものではない。何と云っても戦争の無い世界・核の無い世界をより望んでいるのは原爆で犠牲になられた人々であり、この人々の死を無駄にしてはならない。

六〇年間、苦しみの中で生き抜いて来た被爆者に与えられた責務として「戦争の放棄」を叫びつづけて行かなければならないのです。

私たち被爆者と国民がしっかりと団結し、憲法九条を守り戦争なき平和への道を堅持し、次の世代の人々に平和な世界を残したい。

その為には、憲法九条は絶対変えさせてはならない。

九条は憲法の根幹ですから!

(みやぎ憲法九条の会呼びかけ人・宮城県原爆被害者の会事務局長)


「憲法と私」

清藤恭雄

私は、一九九八年四月、日中法律家交流団の一員として、中国を訪問した。北京、西安と回ったあと南京市を訪れ、その一環として、南京大虐殺記念館を見学し献花した。同記念館の正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」というもので、入口の階段を昇ったところに犠牲者三〇万人と書かれた大きな看板が立てられていた。その中の写真展示室等を通って広い庭に出ると、端の方に幾つかの青いテントが張ってあり、その中では、今でも当時の犠牲者の発掘が行われていたのであるが、その二、三日前にもそこから人骨が出てきたとのことであり、そのことは、地元のテレビでも報ぜられていた。私はそのニュースを聞いて大きな衝撃を受けるとともに、改めて厳粛な気持になった。

南京大虐殺とは、中国を侵略していた旧日本軍が一九三七年から三八年にかけて南京を占領したときに、集団で投降した多数の捕虜や兵士のみならず、一般の老若男女、子供たちも含めて多くの人々を銃剣で殺害し、あるいは強姦したなどというもので、その犠牲者は二〇万人とも三〇万人とも言われている。その人骨の山は「万人坑」などとも呼ばれて、六〇年を経た現在もその発掘作業が続けられているのである(南京大虐殺に関する参考文献として、藤原彰『南京の日本軍─南京大虐殺とその背景』大月書店など)。

日本の旧軍隊は、何故にそのような大規模な残虐行為を行ったのか。私は、当時の南京攻略戦の日本軍の司令官や連隊長といった軍の幹部や一般の兵士に限らず、同じような凄惨な状況下においては、人々の多くは、狂暴になり、同様の残虐行為に走る可能性があるのではないかと考えている。それ故に、人々がそのような状況に置かれないようにすること、すなわち、戦争が起きないようにすることこそが最も肝要である。そのために、私は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」(日本国憲法前文)、人々の人権が十分に尊重され、人間としての尊厳をもって生きられる社会にするためにこの憲法を守り切る責務があると考えているのである。


この地球は一匹のアルマジロ

佐藤和丸

 テレビニュースで見たのですが、南米のどこかだと思ひます。舗装道路の脇に白い路側帯のラインを引く作業中の機械が、過(あやま)って(だと思ふのですが)アルマジロの背中を横断し無残にも道端に漬(つぶ)されて死んでをりました。

私は兼々(かねがね)地球はこのアルマジロのやうな丸い一匹の生き物だと想ってをりました。ですから、地球が先づあって、そこに無数の生物が生息してゐて、その内の一個が自分だと思ふのは間違ひで、本当は地球全体丸ごとそっくりでこの私(わ)一人(れら)をあらはすのです。各人が個的に独立して点在してゐるといふのは従って全くの幻想だと言へます。アルマジロには鋭い爪や口の中には歯牙もあるかも知れませぬ。でも彼は武器のやうなそれで自分の体を傷つけるでせうか。むしろ敵と戦はず、身を丸めて防御する動作はしますが、自虐行為で自ら血を流すやうなことはしないでせう。

人間が他者を殺(あや)める戦争をするといふことは自分で自分の体に傷をつけるやうなものです。私達は逆(さか)さ爪でも全身が痛みますし、歯で舌を嚙(か)んだ日には途端に全身硬直、死に至ることだってあるのでせう。憲法九条改悪は自分で顔を引っ掻き、自分で舌を嚙(か)み切る準備をするやうなものです。地球(われら)を殺さすな!

(若林区・徳照寺 住職)


「憲法九条と私」「私にとっての“不断の努力”とは何かを探して」

須藤道子

私は日本国憲法前文ほど優しく、崇高な理念を表した文章を他に知らない。

「…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持しようと決意」「…全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する。」

この平和主義の具体化をめざしたのが憲法九条であろう。

前文と九条とを合わせ読めば、「責められたらどうする」や「普通の国になって国際貢献する」などの改憲派の言い分がいかに欺瞞に満ちているか確信できよう。

「九条の会」講演で大江健三郎が憲法九条にある「希求」という言葉について「この憲法を書いた人は新しい国家の民主主義と平和主義の秩序をつくりあげたかった、その思いを『希求』という言葉に表したのだ」と語っていた言葉を思い起こす。人間をより高い理想に向かうべき存在として捉えた憲法九条は、日本国憲法制定時の、そして今も未完の人類の意志であり希望なのだ。

高らかな理想であればこそその実現のためには様々な困難も障壁もあるだろう。まして、〝改憲〟への動きいよいよ現実となって、今、主権者としての私たちが問われている。この憲法をどうしても手放したくないと考える一人として、憲法12条のいう「不断の努力」とは自分にとって何をすることであるのかを、しっかりと考えていきたい。

ひとりの力は微力だが、改悪に抗して汗することを私自身の良心の発露として、そして一人ひとりの尊厳を何より大切にするこの憲法にふさわしくあるために。

(みやぎ憲法九条の会世話人・ 「テロにも戦争にもNOを!」の会世話人代表)


「憲法と私」

勅使河原安夫

私は1925年(大正14年)9月5日、仙台市青葉区二日町で生まれ、木町通尋常小学校を昭和13年に卒業し、中学2年生だった同15年(所謂皇紀2600年の年)4月、仙台陸軍幼年学校(仙台市三神峯)に入校し、同18年4月、陸軍予科士官学校入校、同19年4月から陸軍航空士官学校に進み、同20年8月15日敗戦により復員しました。翌21年4月、東北帝国大学法文学部法科に入学し、昭和26年4月から仙台市で弁護士を開業し、以来約56年を経過しました。

この私の略歴でわかるとおり、少年期から青年に至るまでの間、我国は昭和前期の間、農村、特に東北農村の貧困の時代であり、政治は恐慌後の経済的行き詰まりから軍国主義、国内右翼テロ、5.15事件、2.26事件等で代表される右翼思想とテロ事件、そして満州事変、日中戦争、太平洋戦争という全く動乱の時代でした。従って、小学生の運動会では鉄砲を担いで閲兵分別行進をするという、その教育も軍国一色であり、勿論職業軍人としての陸軍幼年学校以来の目的教育の裡に教育された時代でした。昭和21年、東北大法科1年生では当初清宮教授の憲法講義を受講しましたが、それは明治憲法でした。そのうち明治憲法の改正ということになり、その改正経過を清宮先生から受講しました。そして昭和22年、新憲法が公布されましたが、それを学び、大きな感動を受けました。正に私にとってはカルチャーショックでした。この憲法が拠って立つものは人類の歴史的遺産とも言うべき思想による所が大きく、一口で言うとそれは人間の尊重、尊厳を基本とする思想であり、哲学者カントの平和論にも通じるものであると思っています。

人間は古代から自己の欲望(権力欲、名誉欲、経済欲その他諸々の欲望)によって、自己以外の人間の生命を奪い、生活を蹂躙し、自己のため他を抹殺することの繰り返しをして来たと言う悲惨、悲痛の大きな誤りを重ねて来たのではないでしょうか。戦争によって人を殺し、自らも傷つき、一体何を得て来たのでしょうか。私達は、戦争で全く個人的には恨みもない相手(人間)を殺し、傷つけ、その生活を破壊し、またせっかくの文化や自然さえも破壊し、莫大な経済的資産を無駄にして来ました。人をいかに多く殺傷したかにより、軍人や政治家は偉大な英雄と称えられ、勲章を受け、多くの賛辞さえ受けていますが、よく考えるとそれらは人類や人間のために真に称えられることなのでしょうか。もうその様なことは沢山だと思います。その様な考えから脱却したのが我国憲法の平和主義の根源的思想だと信じます。憲法9条1項、2項の基本的思想は、その様な人類の反省に立つ規定であり、歴史的世界遺産とも言うべきものです。正に21世紀の輝かしい憲法であります。

今、この憲法を改正して、我国を戦前の様に集団人殺しが出来る憲法にしようとする改正論が叫ばれ、我国憲法は制定以来60年余も改正されないでいるので時代遅れになっているとか、軍備なくして国を守れる筈がないとか、理想主義で複雑な国際社会の平和を維持出来る筈がないとか様々なことを言って改憲しようとする企みがなされ、今や憲法9条は、人類歴史の血と犠牲の上で築き上げられた尊い遺産であることを忘れ、人間の歴史を逆戻りさせる動きが我国の政治課題となっています。私は断固として反対し、その様なことを我々の子孫のためにも再び人殺し、戦争の惨禍を生ずるというダッチドールに入り込むことのない様にする使命があると信じます。武器をもって栄えんとする者は武器によって滅ぶことになるという人類の歴史を忘れることなく、憲法9条こそ人類の平和のために守るべき世界に冠たる憲法条文であると信じ、一人ひとりの力は小さくても、多くの人々の力を集めて世界に冠たる憲法9条を守るその旗の下に団結しようではありませんか。憲法9条を改正して権力者に武力を持たせれば、権力者は悪をなす危険があります。国民は、その様なことを権力者(為政者)にさせない様にすることこそ、立憲主義の原則を守ることです。北朝鮮が核実験をしたとなると、政治家の中には我国も核武装を考えることが必要ではないか、などと言い出す者すら出て来ていることを、我々は十分噛みしめてみる必要があると思います。

(みやぎ憲法九条の会世話人・弁護士)


「憲法と私」

西澤晴代

昨年5月、念願の「平頂山事件」の記念館を訪ね、花束を捧げることができました。集落の殆んどすべての住民を一ヶ所に集めて虐殺し、焼却し、崖を爆破して埋めたというその場に、発掘されたままの姿で置かれている遺骸の数々。その姿は想像を絶するもので、直視に絶えず、言葉を失い、かすかな震えが止まりませんでした。先の戦争で日本人の受けた被害も、アジアの人々に与えた被害もその悲惨さは言語に絶します。「もう2度と嫌。殺されるのも、殺すのも嫌。」その思いが、憲法の前文であり、9条がその具体だということを実感しました。

その夜のレセプションで、私たちは2度と戦争はしない。武器は持たないと世界に誓った憲法を持ち、9条があること。『9条の会』が全国に広がり始め、私も地元で「女性9条の会」に関わっていると話し、「平和であってこそ」の思いを共感しあいました。

改憲を明言し、教育基本法改悪を最重点課題とする安倍内閣が誕生しました。教育基本法は前文で憲法に掲げた『理想の実現は根本において教育の力に待つべきもの』と述べ、『憲法の精神に則って・・教育の基本を確立する』ための法律としています。「改正案」はこの『基本理念』を根本から変え、教育を「戦争する国を支える人づくり」にしようとするものです。「憲法9条改悪」とリンクしているのです。なんとしても「廃案」にし、憲法・教育基本法を守りたいものです。

(みやぎ憲法九条の会世話人・子どもの人権を守る宮城県連絡会事務局長)


「日本国憲法は『人類の宝』です」

芳賀唯史

一昨年、サイパン島を訪れる機会がありました。銃弾の痕が壁に生々しく残ったままの洞窟(旧日本軍司令部)を見ました。少しひんやりとした空気には、血の臭いが混じっているような気がしました。その後、多くの民間人が「バンザイ!」と叫びながら海に身を投げた「バンザイ・クリフ(岬)」に行きました。今、この岬には、乳飲み子を抱えて身をなげた母親を型どった立像が建てられ、平和を祈りながら海をみつめています。わずか122平方キロメートル(仙台市の面積の15%)の自然豊かな小さな島で、日本軍人四万五千人、在サイパンの日本人1万人、合計五万五千人が亡くなったと聞き、慄然としました。

帰国後、第二次世界大戦の戦死者数を改めて調べてみました。日本人の死者は310万人です。ソ連2000万人、中国千数百万人、ポーランド600万人、ドイツ450万人、インドシナ200万人、インドネシア200万人と、本当に大勢の人間の命が奪われた事実を再認識し心に刻みました。この戦争での死者は、世界中で、四千万人とも五千万人とも言われています。

日本国憲法は、この第二次世界大戦のような悲劇を二度と繰り返してはならないという世界中の人々の願いと祈りの中から生まれた「人類の宝」です。生協運動の前提条件であり、メンバーの共通の強い願いである平和を守りぬくためにも、日本国憲法を大切にしていきたいと思っています。

(みやぎ憲法九条の会世話人・みやぎ生協理事長・宮城県生協連会長理事)

「憲法と私」

樋口晟子

日本は今重大な岐路に立っていると思います。戦後六十年、平和憲法のもと私たちは戦争による殺人を犯すことなく過ごしてくることが出来ました。私たちは戦争の悲惨さを身をもって経験しました。原爆の残虐さはいうに及ばず、戦場へ狩り出され戦死した兵士たち、火の海と化した町の中を逃げまどった大勢の市民がいました。国威発揚などとはおおよそかけ離れた現実、これが戦争です。私たちは戦争の被害者としてのみ捉えられるものではなく、相手を苦しめる加害者としての立場も合わせもつ責任があります。私たちはこのような気持ちから「宮城女性九条の会」を結成しました。今、千五百名以上の方から賛同の意思表示をいただき、勉強会を継続的に開いて、平和を守ることの大切さを訴えています。

国際貢献という名のもと、先制攻撃を仕掛ける大国に追随する日本という国のあり様は、平和憲法の意図とは全く異なったものになっています。テロ撲滅のためと称する戦争は決して美化されるものではありません。イラク国民の苦しみも、又そこで戦わされる米兵士の苦しみも私たちにはまっとうには伝えられてこないのです。ここでふんばらないと九条は守りきれなくなります。

(みやぎ憲法九条の会世話人・宮城女性九条の会・東北福祉大学元教授)


カウラの桜

白石市元市長 川井 貞一

【カウラの桜】
 それでは、平成6年から始まった、白石市とハーストビル市との交流の中で、私が知り得た最も感動的な話、「カウラの桜」の話をいたします。(カウラはオーストラリアの地名です。編集部)

≪明治から大戦前まで≫

  先ず最初に日本とオーストラリアの関係についてお話をしたいと思います。
 オーストラリア東北部のクイーンズランドに、砂糖(さとう)(きび)が輸入され大規模な栽培が開始されました。この労働者に明治21年に日本人労働者約百名が雇い入れられ、続いて26年には千人が渡豪(とごう)しております。又、江戸末期から木曜島、アラフラ海の真珠貝や、ボタンの原料にする蝶貝の採集には、多くの日本人潜水夫が従事しておりました。これはおそらくは、オーストラリアと日本の交流の最初だと思います。
続いて大正3年、第1次欧州大戦の時、日英同盟の関係で日本海軍は、アンザツク軍(オーストラリア・ニュージーランドの連合軍)の、欧州戦線への海上輸送を、重巡(じゅうじゅん)伊吹(いぶき)」以下の艦隊の護衛の上で行い、大いに友好関係を深めた訳でありますが、その後、不幸な時期が訪れました。

≪第二次大戦≫

昭和149月、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、英国の対独(たいどく)宣戦(せんせん)布告(ふこく)に伴いまして、オーストラリアも自動的に参戦いたしました。 
更に昭和
16128日のハワイ空襲により、太平洋戦争が勃発し、太平洋戦争38ケ月間を通じてオーストラリア将兵22千人が日本軍の捕虜になり、各地の捕虜収容所で苛酷な労働を強いられ、中でもシンガポールのチャンギー収容所から泰緬(たいめん)鉄道(てつどう)建設に使役された将兵は、多くの大変な苦労をいたしました。具体的に、22千人の捕虜の内、79百人余が、苛酷な状況下で死亡するという事態が生じ、戦後のオーストラリアには、長く反日的な感情が渦巻いていたのであります。
捕虜に対しての考え方の違いとはいえ、オーストラリアのドイツ軍管理下の捕虜は7千余名・その内死者は240余名であり、日本軍の捕虜になった将兵22千余名、その内の死者数が7960余名いたということが、いかに日本人のイメージを悪くしたかは、お解り(わかり)いただけると思います。

≪戦後の反日感情とその修復≫

日本の敗戦で太平洋戦争が終わり、オーストラリア将兵の捕虜達が帰還してきました。苛酷な拘禁(こうきん)生活は、捕虜達の身体にも精神にも大きな影響を与え、彼らは地獄の捕虜生活とか日本兵の残虐さを吹聴(ふいちょう)していました。それにも増して、35%以上の死亡率が、この帰還兵達の言葉の信憑性(しんぴょうせい)を証明したのであります。オーストラリア全土で反日感情が高まったのは、当然のことであります。
  このような経過を経て昭和36年、衰退したイギリスが、国内の工業製品をヨーロッパ諸国に売るために、EECへの加盟を申請しました。見返りは、欧州産農産物の輸入であり、このため英国はオーストラリアからの農産物の輸入を、欧州に切り替えました。輸出の60%近くを英国に依存していたオーストラリアは、大打撃を受けました。オーストラリアは、当然農産物の輸出先をアジア市場に求めましたが、日本以外の国では、外貨がなかった。 
未だに反日感情が強く残っている対日通商にオーストラリア政府は躊躇(ちゅうちょ)しましたが、しかし池田勇人首相時代に日豪通商交渉がまとまり、オーストラリアは日本へ向けて、農産物の代 わりにコークス、鉄鉱石、ボーキサイトなどの鉱物資源の輸出、日本からは工業製品の輸入振興ということで、通商条約を締結しました。
  1960年代以降、無限の鉱物資源を求める日本は、オーストラリアとの経済補完関係で大いに潤い(うるおい)、オーストラリア経済も対日輸出で危機を脱し、精度の高い日本製工業製品は、徐々にオーストラリア人の対日意識を変えていきました。

≪力ウラ事件≫

  さて、力ウラ事件でありますが、昭和18年前半以降、日本軍は各地で玉砕を繰り返します。その中で負傷者は、手厚い治療の後、捕虜となって、力ウラの収容所に送られます。
 力ウラはシドニーの西方320kmにある人口4200人余りの田舎町でありますが、ここの捕虜収容所は、元来はドイツ軍・イタリー軍の捕虜を収容するための収容所であったようですが、日本人の捕虜が多くなるにつれて、このカウラ捕虜収容所は、日本人のための収容所になりました。この収容所は、日本人捕虜が1500人を越える勢いになったその時点で、暴動が勃発(ぼっぱつ)したのあります。「生きて虜囚(りょしゅう)辱め(はずかしめ)を受けず」という戦陣(せんじん)(くん)に洗脳された日本捕虜は、監視兵の待ち受ける機関銃とライフルに向かって、食卓ナイフとこん棒のみで絶望的な死の突撃を敢行(かんこう)しました。
昭和1985日未明午前2時、突撃ラッパを合図に千名近い下士官、兵士捕虜が脱柵を敢行いたしました。脱走してどうするのか。東へ向かえばオーストラリア軍が待ちかまえている。あとは全て死の砂漠です。脱走に成功しても、迎えるのは死です。結果としては5分以内に230名近くの死者と無数の負傷者を出して、鎮圧されましたが、オーストラリア軍も将校・名、兵士3名が犠牲となっておるそうです。
  驚くべきは、この230名の死亡者は全て仮名であります。力ウラの墓地にはこのほかに、敵性国民として収容所生活を送っていた商社員と家族や民間人等々、522基のお墓がありますが、このうち230名の力ウラ暴動の死者は全て無名戦士の墓であります。つまり「生きて虜囚の辱めを受ける無かれ」という戦陣訓に洗脳された犠牲者は誰1人本名を名乗っていなかった。つまり、自分の家族達に悪影響が掛かるのを恐れて、身元を明らかにしなかった死者だけです。哀れとしか言いようがありません。

≪出征兵士の善意と墓地の建設≫

  そして終戦後、力ウラ出身の出征兵士達も故郷に遠ってきました。 彼らは自分たちの郷里のー郭に見慣れぬ風景を見出しました。暴動で死亡した日本人捕虜を埋葬してあります。 
そこには誰1人手入れをするものもなく、荒れるにまかせていました。「土に戻った人間に敵味方の区別はない。」太平洋戦争で死線をくぐり抜けて生き残った帰還将兵達は、住民の反日感情の視線の中で、人道的見地からこの墓地を定期的に清掃し始めました。この崇高な行動が、徐々にカウラ市民にも理解され始めました。
ー方・秘められていたこの騒動を知って驚いた日本政府は、行動を起こしました。日本大使館、力ウラ市役所、そして最も戦闘的で、反日的だったオーストラリア退役軍人連盟(RSL)が合意をし、大戦中にオーストラリア領土で死亡した日本人国籍の遺骨を、カウラに集めることで合意。昭和391122日、由良滋氏設計の日本人戦没者墓地が建立され、慰霊祭(いれいさい)が催されました。初めてオーストラリアで、日本国旗が掲揚(けいよう)されたのであります。

≪慰霊の日本庭園≫

 更に昭和54年、カウラ日本庭園の第1期工事が完成しました。日豪両国政府、民間の協力のもとで完成したものです。設計家は中島健氏。1期工事は日豪折半。オ-ストラリア側は土地と労力を、日本側は大阪万博基金と日本商工会議所の基金寄贈で完成しました。第2期工事はNSW州と東京都の姉妹州提携記念のお祝いとして、東京都が費用の全額を寄贈して、63年に竣工しております。

≪力ウラの桜並木≫

  日豪親善のシンボル「カウラ桜並木道」の建設は、昭和63年、1988年「オーストラリア建 200年」と「日本庭園完成」を記念しての企画。力ウラの墓地と日本庭園を結ぶ約5kmの公道の両側に、20世紀を記念して2千本の桜を、日本からの寄贈によって植えることを目的とした。並木道の管理は、カウラ市役所公園課が担当し、日豪文化交流協会理事長とカウラ市議ドン・ギブラー氏が引き受けることで開始されております。平成1810月現在、並木道は、約4km余りに植樹された、約1千本の並木道に成長しています。
   私はこの桜並木が、240名近い、日本の誤れる指導のために無念の死を遂げた無名戦士の慰霊と、日本の平和を、そして世界の平和を象徴する 並木道だと信じ、貧者のー灯として、平成8年に 桜の木1本を個人として寄贈しました。それは他の寄贈者の桜の木と共に、力ウラの子供達の愛情のこもった手入れにより、今もすくすくと成長しております。
  私はもうー度、力ウラを訪ねたいと考えています。あと千本の桜が植えられ・その桜吹雪の元で、白石のキューブ合唱団の人達の歌う『さくらさくら』や『荒城の月』を聞きながら、無念の死を遂げた、無名戦士への鎮魂(ちんこん)の祈りを捧げたいのです。

(みやぎ憲法九条の会呼びかけ人・白石市前市長」)


「夥(おびただ)しい犠牲の上に生まれた新憲法」

小出 精
 
私が木町小(当時、国民学校)の3年生のもうすぐ夏休みという7月9日の夜、ついに仙台もB29の大群に襲われた。北三番丁(現・支倉町)の我が家から家族と共に外に逃げ出したときは、市の中央部は既に空一杯が真っ赤に染まるほど建物の消失がすすんでいた。
 
必死に逃げた空襲の夜
 
私達はひたすらまっ暗な市の北西方向へ逃げた。道は逃げる大勢の市民でラッシュ状態だった。夜を徹して歩き10日の夜明け近くにB29の爆音がようやく消え去った頃、やっと一休みした場所は今の北山駅の近くだった。大学病院近くの我が家に向かって引き返して来る途中、木町小の校舎の3分の2余りが焼け落ちて煙の立ちこめる黒い燃えがらと化しているのを見たとき、膝の力ががっくりと抜けるのを感じた。
 
次々に伝わる悲報
 
次の日だったかに校庭に召集されたとき、クラスの3分の1以上は被災したらしく、来ておらず、しかも3人の級友が亡くなっていた。その後、日が経つにつれ、父の親友だった人(市の中心街で代々薬局を営んで来た老舗の主人)が直撃弾を受けたらしく遺骸の一片も見つからなかったとか、兄の中学の級友で、燃える自宅をバケツリレーで消そうとしていた人が、兄弟もろとも焼死したなどの悲報を次々に知らされて、事態の深刻さを痛切に感じたのであった。
 
長い夏休み中に歴史的ニュースが続出
学校は無論授業など不可能で9月初旬までの長い夏休みとなった。その間に起きた広島・長崎の原爆被災、ソ連の参戦、そして終戦などの歴史的事柄を報じる新聞の見出しのあれこれやラジオの音声などを、今もよく想い出せるのは、それらが子供にとってもいかに心に刻みつけられる衝撃的な事柄であったかという証拠だと思う。
 
混乱と明るさと
 
以後数年、食料難・学校教育の激変(教科書の中の方々を墨で塗りつぶす作業とか、教室を失った為、方々の住宅に分散して行われた寺子屋そっくりの授業etc)の混乱が続く一方では、世の中には明るさや開放感・希望の雰囲気も漂っていた。
 
旗行列で祝った新憲法を守ろう
 
そして小学5年のときに新憲法が誕生し、私達児童も大勢の市民と共に、学校から市役所前広場まで旗行列をしてお祝いしたのであった。実に夥しい犠牲の上に生まれた貴い憲法である。これまでに受けたその計り知れない恩恵を忘れるなどは、まさに喉元過ぎて熱さ忘れるの典型であり、改悪するなどはもってのほかと云う以外はないのである。

(みやぎ憲法九条の会呼びかけ人。一人の市民。鶴ヶ谷七丁目在住)

夥(おびただ)しい犠牲の下に生まれた新憲法

小出 精
 
私が木町小(当時、国民学校)の3年生のもうすぐ夏休みという7月9日の夜、ついに仙台もB29の大群に襲われた。北三番丁(現・支倉町)の我が家から家族と共に外に逃げ出したときは、市の中央部は既に空一杯が真っ赤に染まるほど建物の消失がすすんでいた。
 
必死に逃げた空襲の夜
 
私達はひたすらまっ暗な市の北西方向へ逃げた。道は逃げる大勢の市民でラッシュ状態だった。夜を徹して歩き10日の夜明け近くにB29の爆音がようやく消え去った頃、やっと一休みした場所は今の北山駅の近くだった。大学病院近くの我が家に向かって引き返して来る途中、木町小の校舎の3分の2余りが焼け落ちて煙の立ちこめる黒い燃えがらと化しているのを見たとき、膝の力ががっくりと抜けるのを感じた。
 
次々に伝わる悲報
 
次の日だったかに校庭に召集されたとき、クラスの3分の1以上は被災したらしく、来ておらず、しかも3人の級友が亡くなっていた。その後、日が経つにつれ、父の親友だった人(市の中心街で代々薬局を営んで来た老舗の主人)が直撃弾を受けたらしく遺骸の一片も見つからなかったとか、兄の中学の級友で、燃える自宅をバケツリレーで消そうとしていた人が、兄弟もろとも焼死したなどの悲報を次々に知らされて、事態の深刻さを痛切に感じたのであった。
 
長い夏休み中に歴史的ニュースが続出
学校は無論授業など不可能で9月初旬までの長い夏休みとなった。その間に起きた広島・長崎の原爆被災、ソ連の参戦、そして終戦などの歴史的事柄を報じる新聞の見出しのあれこれやラジオの音声などを、今もよく想い出せるのは、それらが子供にとってもいかに心に刻みつけられる衝撃的な事柄であったかという証拠だと思う。
 
混乱と明るさと
 
以後数年、食料難・学校教育の激変(教科書の中の方々を墨で塗りつぶす作業とか、教室を失った為、方々の住宅に分散して行われた寺子屋そっくりの授業etc)の混乱が続く一方では、世の中には明るさや開放感・希望の雰囲気も漂っていた。
 
旗行列で祝った新憲法を守ろう
 
そして小学5年のときに新憲法が誕生し、私達児童も大勢の市民と共に、学校から市役所前広場まで旗行列をしてお祝いしたのであった。実に夥しい犠牲の上に生まれた貴い憲法である。これまでに受けたその計り知れない恩恵を忘れるなどは、まさに喉元過ぎて熱さ忘れるの典型であり、改悪するなどはもってのほかと云う以外はないのである。

(みやぎ憲法九条の会呼びかけ人。一人の市民。鶴ヶ谷七丁目在住)

「父への想い」

木村春雄

 私は、昭和十六年大東亜戦争が勃発した年にこの世に誕生いたしましたが、父は、その年戦争に召集され、死の島といわれた激戦の地ガダルカナル島で二年後に戦死したのであります。 私が幼いながらに思った苦い記憶が思い出されます。終戦後、戦地から復員した父親(叔父)から大変可愛がられ戦争がなくなった幸せを感じておりました。
しかし、私が小学校四年生の時、実の父親は戦死し、今の父親は母と再婚した叔父であることを、祖父から初めて教えられたのです。
当時の日本ではこの様なことは珍しくなかったと聞いておりますが、戦争による悲惨な体験をした一人として、これから二度とこのような悲惨な戦争が、起こらないよう語りついて行きたいと考えております。
 日本は、第二次大戦による甚大な犠牲と軍国主義の時代への反省を踏まえ、民主主義国家として再出発するため平和主義を掲げ、二度と戦争を繰り返さないという意思表明をしました。
 平和主義の理念は、戦争の放棄を謳った憲法九条に凝縮されているものと思う。日本は戦後、その九条とともに、復興と繁栄の道を歩んできたのです。
ところが、理想主義と激変する国際社会の現実との乖離がしだいにおおきくなってきて、政府は国内の反対を押し切って特別措置法で自衛隊を派遣するようになり、そのたび政府は憲法解釈を拡大しております。平和主義の理念は崩れております。
 新憲法草案が作成され、改憲議論が動き出しているが、父親の想いを胸に、憲法九条が改悪されないよう見守って行きたい。
(みやぎ憲法九条の会呼びかけ人・農協中央会会長)