「いまを思う」若手研究者の萎縮を危惧する

吉田 正志(みやぎ憲法九条の会世話人)

任命拒否から2ヶ月経って

日本学術会議(以下、「学術会議」と略称)が、2020年10月1日付けで会員となる候補者105名を内閣に推薦したところ、菅内閣がそのうちの6名の任命を拒否するという、前代未聞の事態が生じてから2ヶ月が経過した。

最近の政府・自民党は、6名の任命拒否問題ではなく、学術会議のあり方に攻撃の矛先を向けており、とりわけ学術会議が軍事研究に否定的な方針を守っていることを批判し、さらには国家機関から学術会議を切り離すことも目論んでいる。

従来、学術会議が推薦した会員候補者を形式的に任命していた内閣が、突如何の理由も示さず6名の候補者の任命を拒否したのは、その任命拒否自体が目的だったのか、それとも最終目的は学術会議の変質もしくは解体であり、任命拒否はそのためのきっかけに過ぎなかったのか。この点の判断は重要な問題であるが、ここではこの問題に立ち入らない。私は、この6名の研究者が学術会議会員に任命されることを拒否された、その理由1点にこだわりたい。

任命拒否理由を示さず

まず、任命を拒否された6名の研究者を確認しておこう。以下の通りである。

芦名定道京都大学教授・宗教学

宇野重規東京大学教授・政治思想史

岡田正則早稲田大学教授・行政法学

小沢隆一東京慈恵会医科大学教授・憲法学

加藤陽子東京大学教授・日本近代史

松宮孝明立命館大学教授・刑事法学

容易に理解されるように、全員がいわゆる人文社会系の研究者である。政府は、任命を拒否した理由として「総合的・俯瞰的観点」、「多様性」、「事前調整がなかった」等々、まったく支離滅裂な言辞を弄するが、最後は常に「公務員の人事についてはお答えを差し控えさせていただく」ことに逃げ込む。

しかし、上記の任命拒否された6名の研究者が学術会議会員として十分な研究業績を挙げていることは、誰も否定できないであろう。それゆえ、この6名がかつて「特定秘密保護法」や共謀罪、また「安保法制」に批判的な発言等をしたことを、警察官僚出身の杉田和博官房副長官が問題視して、6名を除外した会員名簿を菅首相に届け、それを菅首相がそのまま認めたという疑念が生じる。

私は、この疑念はきわめてあり得ることだと思う。野党は、この疑念の確認のためには、杉田副長官の国会招致が必要だと要求しているが、政府・自民党はそれを拒否している。もし政府・自民党が野党の要求を受け入れて杉田副長官が国会に出てきても、彼が本当のことを素直に述べるとはとうてい思えない。前安倍内閣の「モリカケ問題」や「桜を見る会問題」等に顕著に表れているように、国会は言論の府というよりはウソが罷り通る場に堕しているからである。

若手研究者に与える影響

上記6名の研究者が学術会議会員に任命されなくても、彼らは個人的にそれほど気にしないかもしれない。すでに研究者として一流の業績を挙げており、そもそも会員の肩書きなどはさほど魅力的なものではない。学術会議の仕事を処理することで支払われる手当若干はあるものの、そのために費やす時間を考えれば、会員にならない方がありがたいのではないか。

私は、2006年8月から2011年9月まで学術会議の連携会員に任命されたので、そのときの経験から上記のように推測するのだが、しかし、これからのわが国学術研究の充実発展をになう大学院生等の若手研究者は、今回の任命拒否問題をどうみているだろうか。

現在の若手研究者を取り巻く研究環境は決して明るいものではないと聞く。文系・理系を問わず、最近は任期の付いたポストが多くなり、5年なり10年なりのプロジェクトの終了と同時に任期も終わり、新たなポストを探さなければならないようである。
さらに、自分の研究を遂行するための研究費は、大学や研究所の経常運営費を当てにできないため、多くの場合科学研究費補助金のような競争的資金や外部資金を獲得する必要がある。このような環境では、長期的視野に立った研究を避け、できるだけ短期間に成果の出る研究を選ばざるを得ない。

また、今回の任命拒否のように、研究者に対して明確な理由を示さず問答無用的に不利益処分を加えることが罷り通るならば、次のポストを探さなければならない若手研究者は、できるだけ波風の立たない無難な研究テーマで成果を示したいと考えても無理はない。

しかし、これでわが国の学術研究は発展するだろうか。未知の分野、他の人のやっていない問題に、失敗を恐れずに果敢に挑戦する研究者が出てくるだろうか。私はこの点に危惧を抱かざるを得ない。

とくに社会科学の場合は、現実的問題を研究対象にするならば、時の政府・政策を批判的に検討することがあり得る。いや、むしろ批判的に取り上げてこそ研究する価値があるというものである。私は、このような研究姿勢を貫く若手研究者が多くいることを確信しているが、それでもなかには、政治が学問を支配しようとする圧力に何らかの影響を受ける若手研究者がいても不思議ではないと思う。これはわが国の学問研究にとって不幸なことではないか。

市民の理解を得る重要性

なお、任命拒否問題を扱う論調のなかに、本問題はしょせん学者の世界のことであり、市民には関係ないことだとみられる可能性のあることを指摘するものがある。それへの対応として、わが国戦前1933年(昭和8)の滝川事件や1935年(昭和10)の天皇機関説事件を引用して、学問への弾圧は決して学者の世界だけに止まらず、いずれは市民の思想・表現等の自由が抑圧され、さらには戦争への道に突き進む歴史を説くことがなされる。

私も、自分も歴史家であることもあって、歴史に学ぶことの重要性は十分認識しているが、市民のなかには、戦前と現在とでは事情がまったく異なるから、今回の任命拒否が市民の基本的人権の侵害にまで結びつくかは疑問であると考える人も多いかもしれない。こうした意見にどう対応するか、工夫が必要だろう。

ちなみに、私は、滝川事件や天皇機関説事件は、まことに不当なものであるが、少なくとも弾圧する理由は述べていた。しかし、今回の任命拒否はまったく理由を示していない。この点において上記2事件と比べて一層タチが悪いと思っている。
最後になるが、私にはいささか不安に思っていることがある。それは、この歴史に学ぶということが、最近の若者にはたしてどの程度浸透しているかという疑問である。その理由は、あるいは私が知らないだけなのかもしれないが、とくに大学生諸君が本問題に対してさほど大きな声を上げているようにはみえないことである。

大学生諸君は学問の世界の一員である。彼らは、学問の自由とは何か、大学はどうあるべきか等の問題に接近しやすい立場にある。それゆえ、本問題についても一定の関心をもてるのではないかと思う。しかし、その関心が具体的行動に表れているのかどうか、よく分からない。

コロナ禍のため、そもそも大学キャンパスに入れないという学生も多くいるようだから、学生が本問題について話し合い、行動を起こすことは困難なのかもしれない。そのような事情は理解できるものの、大学の構成員である学生諸君には、本問題に大きな関心をもって貰いたい。一般市民の関心を喚起することとともに、より学問の身近にいる学生諸君の関心を呼び起こす働きかけが大事だと思う。

ここまで書いたところで、『しんぶん赤旗』2020年12月1日号1面が、「臨時国会の会期末が迫る30日、菅義偉首相による日本学術会議への人事介入を許さないと高校生、大学生が首相官邸前で抗議を行いました」と報じていることを知った。学生諸君が任命拒否問題にさほど関心を示していないのではないかとの私の心配は杞憂だったかもしれない。この若者たちの行動が、今後さらに大きな潮流になることを期待したい。

(2020年12月1日記)