“非”立憲的な日本人 ――憲法の死文化を止めるためにすべきこと

“非”立憲的な日本人 ――憲法の死文化を止めるためにすべきこと

境家史郎(東京大学大学院法学政治学研究科教授)を読んで

佐藤修司

「改憲論 対 護憲論」を超えてというタイトルで、日本人の憲法観について調査し、記したものである。

堺屋先生は、憲法に関する意識について日本人を2種類に分けるとき、長らく使われてきた基準は、もっぱら、改憲派か護憲派かというものであったが、今日の日本人の憲法観には、改憲に関する賛否という以前に、問われるべき根本的側面があるのではないか」と指摘して、それは、日本人が「どれだけ立憲主義的であるのか(立憲主義の考え方を理解し、信奉しているか)」という点であると問題提起した。

こうした立憲主義の思想は、「権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする」という、「法の支配」の原理と密接に関連する。こうした立憲主義の考え方を理解し、これに規範性を認める人を「立憲主義者」、そうでない人を「非立憲主義者」と呼ぶことにする。

憲法観を測定する

分析は、オンライン調査の結果に基づく。調査は楽天インサイトの登録モニターに対して行い、居住地(都道府県)、性別、年齢について、現実の人口比と等しくなるよう割り付けがなされた。回答者の総数は4000人である。

本調査で焦点となる質問は、「あなたが考える憲法のあり方は、どちらのイメージが強いですか」というものである。憲法のあり方の「イメージ」にはA、Bの両極を用意した。回答者は、「A(B)に近い」「どちらかと言えばA(B)に近い」「どちらとも言えない」の選択肢から一つを選ぶことになる。A、Bの具体的文言は次の通りである。

A:憲法はあくまで国の理想の姿を示すものであるから、政府は、現実の必要に応じて、憲法の文言にとらわれず柔軟に政策決定すべきである。

B:憲法は国家権力を制限する具体的ルールであるから、政府は、現実の必要があるとしても、憲法の文言上許されない政策を採るべきではない。

イメージA、Bは、この憲法観をめぐる対立を、より鮮明化した形で捉えようとしたものである。Aの見方によれば、政府は実際上、憲法に行動を制限されていない。これを選ぶ人は、憲法の役割をいわば為政者にとっての道徳的目標として捉えているのだと思われる。これは近代の立憲主義的な考え方ではない。

法の支配を重視する立憲主義者は、2つのイメージから選ぶとすれば、Bを採らなければならない。というより、憲法の役割をBのように考える(Aのように考えない)ことこそが立憲主義的であることの定義(の少なくとも一部)なのである。

大量に存在する非立憲主義者

「A寄り」を非立憲主義者、「B寄り」を立憲主義者と単純に分類すれば、回答者の中では、非立憲主義的立場が明確に優勢であった。


図1:立憲主義者/非立憲主義者の割合

厳格な立憲主義者である「Bに近い」を選択した人は全体の11%に過ぎず、言い換えると、9割方の人が、「憲法の文言上許されない政策」でも政府はときに実施すべきだと、大なり小なり考えていることになる。状況に応じて、違憲立法を柔軟に(?)認めてよいというのである。

今日の日本社会に非立憲主義者がきわめて大量に存在することは認めざるをえない。

なお、今回の調査結果が的外れでないことを示す傍証として、無作為標本を用いた既存の世論調査を一つ挙げておこう[5]。

読売新聞社が2018年3~4月に行った調査であるが、ここでは「あなたが考える憲法のあり方は、どちらのイメージが強いですか」と問い、「(A)国のかたちや理想の姿を語るもの」、「(B)国家権力を制限するルール」のいずれかを二択で選ばせている[6]。その結果は、Aが60%、Bが37%であった。

立憲主義の概念・考え方は、今日、義務教育で一通り教えられている。しかし、日本人の血肉になっているとはとても言えない。憲法典の具体的内容をよく知らない人が多い、との指摘は昔からある(事実である)。しかし、多くの日本人にとって、問題はそれ以前の次元にあると言わなければならない。

日本人が憲法のことを理解していないのではないかと思っていたが結果には驚いた。

問題はそれ以前の次元にあると指摘しているが、それを挽回する道はあるのだろうか。

あるいは憲法を国民の血肉にする方途はどのようにすべきなのだろうか。境家先生は触れていないが、今の自公政権には教えようとする気はないものと思われる。

                                       

(以下、佐藤修司)

改正される前の教育基本法には「日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」として「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」としていた。すなわち、教育は日本国憲法に則り、その精神を生かしていくものであった。憲法の意味するところをきちんと国民に教えていくことが重要であったにもかかわらず、そのことをないがしろにしてきたことを表していると思う。

憲法12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。」とあり、「自ら憲法を使い保持しなければならないとしている」ことは憲法をくらしに生かすことをっしている。国民にも責任があると言っているのだ。

戦後の自民党文部行政が憲法の精神を教えず、通り一遍に大日本帝国憲法と新憲法という言葉、文字だけを教えてきたことの表れであろう。

一言でいえば、憲法は紙に書かれたもので大切なものでなければ、よるところのものでもない。自分の生活に役立っていない、関係ないと感じているということだろう。

戦争を再びしないとした9条を、自民党は改正しようとしている。改憲4項目を私たちは批判し反対しているが、アジア太平洋戦争の結果、戦争を二度としないと誓った日本人の決意はどうしたのだろうか。中国台湾の緊張の高まりに、アメリカとの軍事同盟をすべての前提として再び戦争を辞さないとする対応に国民は疑問を持たないのだろうか。

さらなる宣伝の方法を考えていきたい。

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